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potatoaim(ポテトエイム)が自分のiPhoneのメモ帳を晒していくブログ。

THE POTATOAIM

potatoaim(ポテトエイム)が自分のiPhoneのメモ帳を晒していくブログ。

謝る姿が様になるのがカリスマである

 

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0.今日の結論

謝る姿が様になるのがカリスマである。

 

1.僕は謝るのが苦手。

(1)謝るのは恥ずかしい?

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僕は謝るのが苦手です。その理由の1つとして単純に自分の間違いを認めることが恥ずかしいというのがあります。人を信頼できる人はいいですが、人間不信な人は謝ると後々にいろいろ嫌なことがあるのではないかとつい考えて謝るのが遅れてしまいますよね。人間関係を壊してしまうのではないかという恐怖心もあります。

 

(2)俺は間違ってない!

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もう1つの理由として、本当に100%自分が悪いと言えるケースは非常に稀だということがあります。原因をかなり遡っていくと、実はそもそもミスや失敗が必然的に生まれる環境だったということはありますよね。自分が悪くなくても謝ることができるのは立派な大人の証ですが、社会人になれば誰でもできるようになるものではないですね。

こういった理由で謝れないのは頭のいい人に多いのかもしれません頭のいい人は問題発生の後ろにあるバックグラウンドを広く見渡すことができるので、本質的な原因が割と簡単に分かってしまうのですが、それが言い訳に映ってしまうわけです。

 

(3)謝ったら負け

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謝罪ができなくなってしまう最後の理由として、謝らなければそもそも失敗したことを気づかれないのではないかという浅はかな期待があります。

ちょっと失礼なことを言ってしまったと気付いても平然と会話を続けることで、『こんなことで気にする自分の心が狭いのかな?』と相手に思わせる作戦です。まあ大体こういう作戦は失敗して、後で影で良くない評判を流されてしまうことになるのですが(笑)

 

2.なぜ謝る姿が様になるとカリスマなのか。

(1)堂々とした謝罪って難しい

 

なぜ堂々と謝る姿がカリスマティックなのか、それは単純に堂々とした謝罪は難しいから。謝るとなると、(悪いと思ってないけどオトナだから)嫌々に謝っているという感じを出してしまったり、反省しすぎて情けない卑屈な謝罪になってしまったりしがちですそういう人に仕事を任せてはおけないので上司のような立場の人が代わりに尻拭いをすることになり手間を取らせてしまうわけです。しかし、自分で責任をとって自分で自分の尻拭いをすると決めた人はかっこいいです。謝罪にこもった自分で何とかするという決意・信念は相手に伝わるものです。そういう人の謝罪には誰でも心を打たれるものです。

 

(2)潔く謝ることで評価が高まる

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またしっかりと自分の非を認めて謝ることで、この人に任せたのは間違いじゃなかった、このまま任せてみようと思ってもらえます。非を認められるということは自分のしたことを客観的に見られるということでもあります。そういうまだ冷静さを失っていない人であればきっと失敗を取り返してくれるだろう、と信じて周囲の人はその後もついてきてくれるわけです。

 

3.謝る姿のかっこいいカリスマたち

(1)HIKAKINさん

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僕がかっこいいと思った謝罪は、日本トップのYouTuberとして活躍しているヒカキンさんです。彼はアケビを食べてみたという動画で、アケビに食べられる部分と食べられない部分があるということを知らず、食べられない部分を食べてアケビの味を酷評してしまったことで一部ネットで炎上してしまったことがあります。その問題の動画の後ですぐに出した動画で自身の知識不足・事前のリサーチ不足を深く謝罪したのですが、その謝罪姿が素晴らしいものでした。泣きながらでも情けなく見えない、関係者に迷惑をかけたことを心から詫びる大人の謝罪に僕の目には映り、とても心を打たれたことを覚えています(思わずグッドボタンを押してしまいました)。動画の最後では改めて正しい食べ方でアケビを食べてアケビは美味しいものだということをファンに伝えるのですが、自分が原因で起こした問題を自分で解決しようとしたこの姿勢も素晴らしいものだと思いました。

 

(2)大竹まことさん

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大竹まことさんといえばズバズバと歯に衣着せない物言いをする威厳のあるテレビコメンテーターとしてお馴染みですが、そんな大竹さんの娘が違法ドラッグ関連の罪で逮捕された際に、大竹さんは髪をさっぱり短くして普段テレビで見せていた荒々しい姿とは対照的な優しいお爺さんのような姿で会見場に姿を見せていましたね。その姿と普段とは異なる粛々とした口調は私たち視聴者には弱々しく見え同情を誘うものでした。テレビで普段のキャラとは違う弱々しい姿を見せることはタレントとして勇気と決断を迫られることだったはずです。自分ではなく娘がしたことであればそれはなおさらだったでしょう。100%の非を認め、しかも自分ではなく愛する娘のために謝罪に臨んだ大竹さんの姿に、『悪いのは娘さんであって大竹さんは悪くないのだから責めるのはおかしい』といった大竹さんを擁護するような論調も生まれたりしました。謝罪はしっかりと行えば次のチャンスを与えてくれるものだということですね。

 

5.まとめ

カリスマ的な存在になりたいと思うことが僕はあります。どうすればカリスマになれるのかを考えてきた中で、堂々たる謝罪というのはカリスマたちが必ずといって言いほどみな実践していることだと気付きました。

ただし堂々とした謝罪ができればそれだけでカリスマになれるという訳ではなく、カリスマたちは例外なく様になる謝罪ができるということですので堂々とした謝罪はカリスマを構成する単なる一要因に過ぎないことはご了承ください。

 

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人間に言葉を与えた神様のイタズラ

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言葉なくしては物事を考えられない不具の苦しみを人は生まれながらにして神に課せられた。

 

ちょっとナルシストっぽいですね(笑)恥ずかしいですがあえて原文のまま掲載しています。じゃないと意味無いですから。人の深奥を覗くのってワクワクしませんか?僕はします。その垣間見えた深淵がその人の普段のイメージと乖離しているほどワクワクします。何故でしょうかね。見てはいけないものを見てしまったという背徳感もあるでしょうし意外と大したことないなと優越感に浸れることもあるのかもしれません。ですが、僕がこのようにさらけ出しているのは、読者の方に背徳感や優越感を抱いて欲しいからではありません(笑)。一番大きな理由は、建前だとあまり意味がないと思うからです。人の深淵を覗いてワクワクするのは、その人の本音に触れられるからでしょう。僕は本音にこそ価値があると思うのです。本音というのは大人になればなるほど建前に隠されて滅多に触れられなくなるものだからこそ貴重です。匿名だからと言って好き勝手に恥も外聞もなく言い散らかすのは違うと思いますが、そうならない範囲で価値のある本音をこのブログでは発信していきたいです。

 

1. 本題

言葉というもの

というわけで今日の本題です。テーマは言葉が存在することによる弊害』です。

 

人は言葉がないと物事を考えられないですよね。人から聞いた言葉をタネにして考えを構築していくのが人です。この背景には、言葉がないとアイディアというものも存在しないという前提の考え方があります。これは唯物論と言われる考え方です。人は外部から入ってくる視覚情報や聴覚情報といった概念を元に頭の中で観念を膨らませていくものだという考え方です。これは卵と鶏の問答のようなもので、心があるから言葉が生まれたのか(唯心論)、それとも反対に言葉が先にあって心が生まれたのかは断定が難しい(あるいは不可能な)問題です。

 

ですが、言葉がなければ意思を伝えることができないというのは誰もが認めることだと思います。テレパシーの技術がもしも将来発明されるとすれば話は別ですが、2018年3月の段階でこの点に異論のある人はいないはずです。

 

『言葉なくしては物事を考えられない不具』とはどういうことかと言うと、足の不自由な方が杖を使わなければ歩けないのと同じように、人は言葉を杖代わりにしなければ思考することや思考を他人に伝達することなど日常で当たり前にやっていることを全く行えない、生まれつきにChallengedな存在だということです。

 

ではなぜそれを苦しみと言うのかというと、言葉が無くても思考してコミュニケーションすることができるのであれば言葉なんて無い方がいいと思うからです。言葉に頼るのは当たり前になっているのでそれを不自由だと感じる人は少ないかもしれませんが、考えてみれば生まれつき足の不自由な人だって足が不自由なことを不自由だとは感じていないかもしれません。それを不自由だと感じないのがおかしいと言うわけではありませんが、言いたいのは不自由だと感じる人がいてもおかしくはないということです。僕は言葉がなくても思考することができればいいのに、あるいは言葉がなくても他人に自分の考えを正確に伝えることができれば...と思うことがあります。

 

口は災いのもと

言葉はあらゆる災いの元凶です。言葉があるからこそ口を滑らせてしまったり、言いたかったことが間違って伝わる誤解が生まれますし、言葉があるからこそ行動せずに満足してしまうし、言葉があるからこそ心にもないことを言って人を傷つけてしまいます。仏教の教えでも、口はあらゆる災いの元であり慎むべきものだとされています。

 

言葉がなければ暴力で解決される世界になってしまうのではないかという指摘ももっともですが、言葉というのも拳と同じで使い方を誤れば十分な暴力になり得ます。言葉も拳もそして性器ですらも、コミュニケーションにおいて本質では変わらないのではないかと思ったりします。

 

個人的に僕は言葉で苦しむことが多いです。文脈を無視して言葉尻だけを捉えられて揚げ足取りされたりすると悔しい気持ちになります。

 

より社会的なことに目を向けると、TwitterFacebookのようなSNSの発達を背景としてノイジーマイノリティと呼ばれる少数の人達が声を大にして自分たちにとって居心地のよい社会を作ろうとするあまり、他のサイレントマジョリティ(無言の多数派)たちにとってはなんだか違和感を憶えるような急進的な風潮が生まれてしまうという現象は海外では日本よりももっと顕在的に問題視されていますよね。

 

blog.livedoor.jp

 

日本でももっとノイジーマイノリティという言葉が広まるべきだと僕は思います。少数意見の尊重はたしかに大事ですが、それは少数意見だと認識できていればの話です。少数意見が大衆の意見でもあると誤って拡大解釈されて世論となってしまうのは危険なことだと感じます。

 

あれこれ言ってみても

こうしてあれこれ言ってみても、言葉がなければ物事を考えられない、伝えられない生物に生まれてきてしまったのですから仕方がありません。人間と言葉が反目しながらも共存していける道を探すしかありません。発言だけが自分のもとを離れて文脈を無視して一人歩きしてしまうということが誰にとっても起こりうる現代だからこそ、SNSのような文明の利器をただありがたがるだけでなく、その負の面にも目を向けて、言葉がもたらす災いについて今こそ考えてみるべきです。自分が言わなくても誰かが代わりに言ってくれる時代だからこそ、言葉がもたらす災いについてもっと意識して考えてみるべきでしょう(2018年2月23日の記事を参照)。

 

potatoaim.hatenablog.com

 

 

potatoaim

 

 

「強者は孤独」は間違い

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ライオンもオオカミも群れを作る。弱いものほど群れたがるは間違い。

 

突然ですが、僕は友達が少ないです。原因はいろいろありますが、一番はやはり友達になるといろいろ面倒くさいからでしょうか。友達になると自分の失礼な言動で怒らせたり失望させたりしないかとたくさん心配になるものです(中にはそんなこと気にしないよという人もいるかもしれませんがそういう人はかなり少数です)。それが面倒くさいので友達なんていない方がいいやという考え方になってしまう。そして、友達なんていない方がいいという考えを肯定するために「強者は孤独だ」とか「Eagle flys alone」といった言葉が生まれたり、「僕は友達が少ないといった小説が好意を持ってたくさんの人に受け入れられる訳です(明記しておきますが作品の批判ではないです)。でも友達がいなくてもいい、なんならいない方がカッコいいという考え方はしない方がよくて、やっぱり友達がいないと人生でいろいろ損することになるので、まずは友達がいないのをカッコいいと思うことをやめようというのが今回のコラムの最終的な主張です。

 

1.なぜ友達ができないのか

(1)そもそも友達ができないとは

友達ができない人には2種類います。1つは友達が欲しくてもできない人そしてもう1つはそもそも友達なんていらないと思っている人です。僕が特に問題視しているのは後者です。友達がいらなくても作る気になれば本当にすぐできてしまう人ならまだ比較的いいのですが、本当は作りたくてもできないだけなのに自分は友達を作りたくないんだと思いこんでいるパターンが最も治療に時間がかかるパターンでしょう(僕はこっちでした笑)。友達が欲しいand友達作りが得意and友達がたくさんいるという人にはついては全く問題ないのでここでは扱わないとして、ここでは友達がいない人たちについて見ていきましょう。

 

(2)友達が欲しくてもできない派

僕にも友達を作る方法なんて分からないので友達を作る方法については語りませんが(笑)、いいんじゃないかと思うことをとりあえず何でも試してみればいいと思います。友達が欲しくてもできない人は、友達の作り方を知って行動に移すだけなので僕的には一番救いようのある人たちだと思います。友達の作り方を知っていても実行できないだけだと言う人で本当に友達の作り方を知っている人は見たことがないですが、知識よりも行動することが大事なのは間違いないと思います。フィリックスデニスというイギリスの大金持ちコメディアン兼経営者は言いました。すごいアイディア自体には価値がなく、アイディアの実現方法にこそ価値があると。自分が思いつくことなんて他の人も思いついていると考えた方がいいでしょう。ただしそのアイディアを実現できる人は少数なのです。これはおそらくどんなことにも言うことができると思います。

 

 

(3)友達なんていらないけど作ろうと思えばいつでも作れる派

これはなかなか、本人しだいの問題です。本人が作りたくないと言うのですからそっとしておくしかない。僕にできるのは友達がいるって素晴らしいよと言うことだけです。それについては2.なぜ友達を作った方がいいのかで考察してみようと思いますので、これに当てはまる人は読んでみて考えたことをぜひ聞かせて下さい

 

こういう人はきっと顔がいいとかスタイルがいいとか、媚びを売ろうと思えば売れるけどそんな風にして作る友達に価値を感じないしできればそんなことはしたくないという人でしょう。媚びを売って作る友達に価値があるのか?というのは重要なテーマです。友達の定義とは?という話でもあって難しいところですが、やはり媚びを売っても友達はいた方がいいというのが僕の考えです

 

(4)友達なんていらないけどよく考えたら作りたくても作れなかった派

これがかつての僕です(笑)。なのでこのパターンは詳しく説明することができますがただでさえ長ったらしい話がもっと複雑で長ったらしくなりそうなのでやめます。こういう人にこそ言いたいです、ライオンや狼も群れを作るのだと!

 

こういう人は大抵、友達といつも一緒にいる人のことをキョロ充だとか陽キャだと言って小馬鹿にしています。実力がないから群れるのだと。彼らは傷を舐めあっている負け犬だ、と。しかし自然界では実力のあるライオンですら群れを作るのですからそれは批判になっていません。こういう人は大体、友達が欲しくても作れない人たちです(自分で言っておきながら耳がとても痛いです)。

 

2.なぜ友達を作った方がいいのか

ズバリ、自分の夢を叶える助けになってくれるからです。今夢がないという人でも、夢ができた時に友人は助けになってくれます。助けになってくれない人は友達ではないです。なので友達の定義は「困った時に助けになってくれる、相談に親身に乗ってくれる人」だと考えておけばいいでしょう。媚びて作った友達でも困ったときに頼りにはなるので作った方がいいです。友達は花と同じで毎日水をあげていないと自分が咲いて欲しいと思うときに咲きませんから、我慢して水をあげましょう。それでも媚びて友達を作ることを空虚に感じて抵抗がある人はきっと、友達に利益とか損とかを超えたプラトニックなものを求めている人でしょう。利害で繋がっているのは友達ではないと。ならば友達でなくても構いません。群れを作りましょう。チームで何かをしましょう。友達になるということを重く考えすぎることをまずやめてみることが重要だと友達がたくさんいる人に聞けばみな口を揃えて言うと思います。1人でもできることしかやらない人生は退屈です。誰も幸福にせず自分だけが幸福になる人生は虚しいです。人間誰しも、皆に感謝され尊敬される人間になりたいと生まれてきたばかりの頃は思っていたのではないでしょうか?無駄な人脈なんて(ほとんど)ないです。

 

3.結論

なんだかいつになく暑苦しいコラムになってしまいましたね(笑)。一番言いたかったのは、友達がいないことをカッコよく思うなんてダサいよということです

 

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美しい勝利に拘りすぎない

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男の恋愛における失敗のほとんどは、美しい勝利にこだわりすぎることにあるといっても過言ではない。残念なことに男とはそういうものだ。

 

少なくとも僕が恋愛で後悔するときはこのパターンが最も多いです(笑)。最初に言っておくとここでの恋愛とは、告白してお付き合いを開始するまでのことです。まだ相手が自分のことを好きなのか分からない状態で駆け引きをして探っている段階ですね。なのでお付き合いが無事成立してからの話は含まれていません(お付き合いを開始してからの失敗は、束縛と放任の使い分けが上手くいかないことから大半は起こっているのではないかと思いますがそれはまたいつか考察していきましょう)。

 

ここで述べられていることを掻い摘むと、恋人になるまでに潜んでいる告白失敗リスクのほとんどは美しい勝利にこだわらなければ回避できるということです。

 

それはどういうことなのかのロジックの部分を説明する前にもう1つ定義について説明しておくと、ここでの美しい勝利とは、無事恋人になれてからも円満でラブラブな関係が長続きするような告白成功ということです。

 

では、たとえ告白が成功してもすぐに別れてしまうような告白とはどういうものでしょうか。それは告白する前に身体の関係を持ってしまったり、まだデートの回数も少なくてそんなに仲良くないのに告白してしまったり。初めに身体の関係を持つと自分はこの人のことが好きなんじゃないかと勘違いして惚れてしまいがちですよね(俗に言うセックストリガーです)。

 

それに付き合う前に身体の関係を迫る男だと、彼女を大事にしないチャラ男のイメージがどうしても付きまとってしまい、彼女の友人や家族から不信な目で見られたりもします。周囲の応援を得られない孤軍奮闘の恋愛はなかなか辛いですよね。このような付き合い方だと、付き合ってみてからそんなに好きじゃなかったことが発覚することがよくあります。

 

 様式美の理論

恋愛にクーリングオフはありませんから、付き合ってから相性が悪かったと発覚してももう遅い。そういった危険を避けるために人は付き合ってから身体の関係を持つという順序を重要視するし、デートもしっかり3回してから告白するというようなルールを徹底してしまう。これを様式美の重視と僕は呼んでいます。様式美を重視することで周囲の第3者の支援を得ることができるため、順序をしっかり踏むことにこだわってしまうという理論です。

 

しかしこの様式美重視の理論によってほとんどの告白失敗の原因を説明できると僕は考えています。付き合うことに成功してからのことを考えすぎるあまりなかなか告白することができない。

 

恋愛とは関係ないのですが、僕の知人には起業したいのになかなかできない友人がいます。その友人は自分の会社が倒産して自分が借金を負うことを絶対にしたくないため用意周到に起業の準備ばかりをしています。

 

このようにその後の成功も織り込み済みで準備を進めてしまいがちですね。たしかに長期的な利益を見据えることは大事なことが多いです。しかし短期的なゲインを取る方がいいこともあります。今回はそのケースです。

 

彼女ができても世界は変わらない

付き合う前に準備をしっかりとする人は、付き合う前と後は全く別のもので、付き合う前にしかできないこと、付き合う後にしかできないことがあると強く信じがちです。手を繋いだりハグをしたりするのは付き合ってからじゃないとしてはいけないとか、デートですら付き合ってからするものだと考えたり(かつての僕はそうでした)。特に女性とお付き合いしたことのない男性だと、初めて手を繋ぐのは彼女とがいいとか、夢を見てしまって奥手になりがちです(男性の方が意外とロマンチストですからね)。

 

付き合ったらこんなことやあんなことがしたいと妄想しがちな人は要注意だと思います。その妄想を大切に胸にしまうのは勿体無いので、今からすぐに叶えればいいんです。付き合っていなくてもデートをしてしまう、手を繋いでしまう。その方が、「この人と付き合ったら毎日こんな感じで楽しいかも!」と好きな女の子に思ってもらえますから。物を売るときに、もし買ったらどうなるかを少しだけ体験させてしまうというのは有効な営業テクニックで、それを恋愛にも応用します。

 

付き合ってからのことを付き合う前にやってしまう分、付き合った後の楽しみは減りますが、美しい勝利には拘らなくても別にいいんです。

 

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「才能がない」という言い訳

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 「才能」は努力しなかった人の言い訳。努力で解決しないことはない。

 

メモ帳をぼーっと見返していたら、このメモに目が止まったので、このメモについてここでは書こうと思います(笑)これからもこのブログはこんな感じで、今見返したら(良くも悪くも)鋭いことを書いてあるなというメモをその時の直感でピックアップして掘り下げていくスタイルでやっていくことになると思います。過去の自分が残したものに今何かを感じるということはそれが過去から現在への変化を読み解く鍵だということだし、掘り下げることが自分にとっては価値のあることだと思うので。

 

お笑い芸人で芥川賞を取ったピースの又吉直樹さんがテレビで言っていたのですが、又吉さんは読んでみて自分に合わないなと思った本は、つまらないからもう2度と読まないのではなく、1度置いておいて自分のレベルがその本の面白さを理解できるレベルに達したと思ったらまた手に取って読むんだそうです。

時間が経っても変わらないものを、時間を置いて見返すことで、自分の中での変化を知ることができるということですね。前の記事でも書いた定点観測です。

 

ようやく本題に入りますが、才能という言葉は言い訳にすぎないというメモを見て感じたこと。

 

今も基本的に考えは変わりません。才能という言葉は全て、言い訳に使われていると言っても過言ではないと思います。もちろん向き不向きというものは確かに厳然と存在していて、努力でどうにもならないことはあると思います。ビートたけしさんも「向いてないことはやらない方がいい」ということを仰っていたような気がします。努力でどうにかならないことはないというメモの後半部分は、言い訳ばかりで努力しない自分を鼓舞したくて少しオーバーなことを言ったのかもしれません。

 

限界を決めるのはいつも自分だ

僕が最も主張したいのは、才能というものは確かに存在するが、才能という言葉を使ったら負けだということです。才能という言葉を口にした瞬間から成長は止まります。

なぜならば、大成功するまで努力をしなかったら才能があるかどうかなんて分からないからです。本当に苦労してそれでも上手くいかなかったときに「自分には向いてなかった」と言うのは分かります。大人なら時間や金銭面である程度の妥協は仕方ないことだと思うので。努力した結果として才能がないと分かることは価値があることだと思います。エジソンの言うように失敗だと分かったことが成功だという考え方です。

しかし充分な努力をしたということは誰が決めるんでしょうか。それはもう諦めたいと思う自分自身や、諦めさせたいと思っている周囲の大人たちなんですよね。

無駄な 努力をやめるための言い訳としてここでは「才能」という言葉が使われている。

 

弱くても勝てる

才能のせいにする人はこの社会が弱肉強食だという前提があると思います。でもこの世は適者生存なんです。弱くても勝てる。才能がなくてもやり方さえ考えれば勝てるんです。才能のせいにする人は努力を積む方向を間違えているかもしれません。努力を素晴らしいものだと信じているからこそ努力をしても報われない自分は才能がないと思ってしまう。しかし努力にも素晴らしい努力とそうでない努力があります。自分がよくない努力をしていると思ったら才能という言葉で諦めてしまうのではなく努力の仕方を変えてみる。そうすることで才能という言葉で呼称された抜け出せないシングルループから抜け出して成功への道が開けるかもしれません。才能のせいにしがちな人はシングルループラーニングになっているかもしれません。シングルループラーニングについてぜひネットで調べてみて下さい。

 

potatoaim

 

 

 

ブログ始めました。よろしくお願いします。

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初めまして。potatoaim(ポテトエイム)と申します。

はてなブログ始めました。よろしくお願いします。

 

このブログでは自分のiPhoneのメモ帳を晒していこうと思います。目的は3つです。

 

①価値の発信②価値の再発見、そして③価値の向上です。

 

①価値の発信

社会的に価値があると思われるメモをブログに投稿していきます。せっかく良いことを書いてるのに自分だけで楽しむのは勿体無いと思うので(笑)。

もちろん自分の言葉ではなくて誰かの引用のときもありますが、その時は誰からの引用なのか付記しようと思います。

 

②価値の再発見

こうした公共の場で他者からの目に晒されることでそのメモに果たして本当に価値があったのかが明らかになると思います。(良くも悪くも)価値のあるメモであればバズって反響があるでしょうし、価値がなければただ素通りされるだけ。このブログには市場(=はてなブログ)にプロダクト(=メモ帳)を投下してマーケットの反応を通して現状の価値を確認したいというグロースハックの目的があります。

また1度書いたメモを後日見返すことで考えを掘り下げたり(better)、新たに別の見方を考えてみる(newer)というのも目的の1つです。同じものでも別の時間、別の角度から見ると違った見え方になるということがあります。メモ帳を定点として自分の中での考え方の変化を定点観察していくことにもこのブログは活用していくつもりです。

そうした二重の意味での“再発見”です。

 

③価値の向上

グロースハックと言うのであれば、当然改善は付き物。ここで考えたことや皆さんからの反響を日頃のメモの価値向上のために役立てさせてください。

 

以上がこのブログをやっていくにあたっての3つの方針です。

 

人は新しい一歩を恐れる

冒頭のメモはドストエフスキーの【罪と罰】を読んでいたときに印象的だった部分を見つけとっさにスマホにメモしたものです。

 

そのときの自分には何か刺さりました。

自分も臆病なばかりに簡単な一歩を踏み出せないことがたくさんあるからです。大半の困難はできないんじゃなくて自分がそれを望んでいないだけなんですよね。

 

自分にはできないんだなんて言うのはただの言い訳だと思います。人間に出来ないことはドストエフスキーの言うようにほとんどないでしょうし、人間にでも思いつくようなことは大抵成し遂げられるようにできてる。人はやっぱり平凡な生活を望むものなんです。自分がそうだとは信じられませんが(自分は欲深い人間だと思っているので)、しかし深層心理では今の生活が一番だと思ってしまっているのかもしれない。

 

人は新しい独自の言葉を恐れる

そうそう、人は新しい独自の言葉を恐れるという文言も興味深いですよね。世界的文豪であるドストエフスキーですらもそのような感覚を理解することができるのかと驚きます。

 

自分の考えを自分の言葉で正確に著述するというのはなかなか辛いものです。出来合いの言葉で綴る方がどれだけ楽か。でも、「あー分かる!」という反響は結局自分の言葉で綴ったものでしか引き出せないんですよね。自分の言葉じゃないと、付加価値は生まれない。聞いたことのあるような誰かの引用なら「ふーん」で終わっちゃう訳です(引用に価値がないと言う訳ではありませんよ)。

 

今の若者は書く力が衰えているって言いますからね(僕も若者ですが)。論文やレポートでネットのコピペをそのまま使う大学生が増えているんだそう(東進の林修先生が仰っていました)。東大生ですらそうだと言うのですから、今の時代は書く力が価値になる時代ですね。ペンは剣よりも強しですよ、それは今の時代まさに。

 

書く力が稀少になってきているから価値が高まっているだけではなく、書く力のニーズそのものも高まっていると思います。今の時代、サービスやプロダクトをいかにバズらせるか、口コミしてもらうかが重要になっています。TwitterFacebookなどのSNSをはじめとした便利道具は揃っている訳ですから。なのでネットを活用して自分の考えを正しい日本語で発信できる人はそれだけで市場価値の高い人だと言えるでしょう。

こうした書く力の供給減&需要増という双方向からの圧力が今の時代にはある訳ですね。言葉の復権と言葉の軽視という相反する2つのトレンドが同時に起きている。その原因は情報過多というこの時代特有の背景です。

 

最後に

自分が言わなくても誰かが言ってくれる時代、自分が行動しなくても誰かの行動の結果を家にいながら気軽にパソコンで享受できる時代にあって、冒頭のドストエフスキーの言葉はますます重みを増していると思います。

僕も新しい一歩と新しい独自の言語を恐れることなく、行動と革新によって自分の価値を高めていきたいものです。

 

もしよろしければコメントやシェアなどよろしくお願いします。

 

potatoaim