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potatoaim(ポテトエイム)が自分のiPhoneのメモ帳を晒していくブログ。

THE POTATOAIM

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人間に言葉を与えた神様のイタズラ

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言葉なくしては物事を考えられない不具の苦しみを人は生まれながらにして神に課せられた。

 

ちょっとナルシストっぽいですね(笑)恥ずかしいですがあえて原文のまま掲載しています。じゃないと意味無いですから。人の深奥を覗くのってワクワクしませんか?僕はします。その垣間見えた深淵がその人の普段のイメージと乖離しているほどワクワクします。何故でしょうかね。見てはいけないものを見てしまったという背徳感もあるでしょうし意外と大したことないなと優越感に浸れることもあるのかもしれません。ですが、僕がこのようにさらけ出しているのは、読者の方に背徳感や優越感を抱いて欲しいからではありません(笑)。一番大きな理由は、建前だとあまり意味がないと思うからです。人の深淵を覗いてワクワクするのは、その人の本音に触れられるからでしょう。僕は本音にこそ価値があると思うのです。本音というのは大人になればなるほど建前に隠されて滅多に触れられなくなるものだからこそ貴重です。匿名だからと言って好き勝手に恥も外聞もなく言い散らかすのは違うと思いますが、そうならない範囲で価値のある本音をこのブログでは発信していきたいです。

 

1. 本題

言葉というもの

というわけで今日の本題です。テーマは言葉が存在することによる弊害』です。

 

人は言葉がないと物事を考えられないですよね。人から聞いた言葉をタネにして考えを構築していくのが人です。この背景には、言葉がないとアイディアというものも存在しないという前提の考え方があります。これは唯物論と言われる考え方です。人は外部から入ってくる視覚情報や聴覚情報といった概念を元に頭の中で観念を膨らませていくものだという考え方です。これは卵と鶏の問答のようなもので、心があるから言葉が生まれたのか(唯心論)、それとも反対に言葉が先にあって心が生まれたのかは断定が難しい(あるいは不可能な)問題です。

 

ですが、言葉がなければ意思を伝えることができないというのは誰もが認めることだと思います。テレパシーの技術がもしも将来発明されるとすれば話は別ですが、2018年3月の段階でこの点に異論のある人はいないはずです。

 

『言葉なくしては物事を考えられない不具』とはどういうことかと言うと、足の不自由な方が杖を使わなければ歩けないのと同じように、人は言葉を杖代わりにしなければ思考することや思考を他人に伝達することなど日常で当たり前にやっていることを全く行えない、生まれつきにChallengedな存在だということです。

 

ではなぜそれを苦しみと言うのかというと、言葉が無くても思考してコミュニケーションすることができるのであれば言葉なんて無い方がいいと思うからです。言葉に頼るのは当たり前になっているのでそれを不自由だと感じる人は少ないかもしれませんが、考えてみれば生まれつき足の不自由な人だって足が不自由なことを不自由だとは感じていないかもしれません。それを不自由だと感じないのがおかしいと言うわけではありませんが、言いたいのは不自由だと感じる人がいてもおかしくはないということです。僕は言葉がなくても思考することができればいいのに、あるいは言葉がなくても他人に自分の考えを正確に伝えることができれば...と思うことがあります。

 

口は災いのもと

言葉はあらゆる災いの元凶です。言葉があるからこそ口を滑らせてしまったり、言いたかったことが間違って伝わる誤解が生まれますし、言葉があるからこそ行動せずに満足してしまうし、言葉があるからこそ心にもないことを言って人を傷つけてしまいます。仏教の教えでも、口はあらゆる災いの元であり慎むべきものだとされています。

 

言葉がなければ暴力で解決される世界になってしまうのではないかという指摘ももっともですが、言葉というのも拳と同じで使い方を誤れば十分な暴力になり得ます。言葉も拳もそして性器ですらも、コミュニケーションにおいて本質では変わらないのではないかと思ったりします。

 

個人的に僕は言葉で苦しむことが多いです。文脈を無視して言葉尻だけを捉えられて揚げ足取りされたりすると悔しい気持ちになります。

 

より社会的なことに目を向けると、TwitterFacebookのようなSNSの発達を背景としてノイジーマイノリティと呼ばれる少数の人達が声を大にして自分たちにとって居心地のよい社会を作ろうとするあまり、他のサイレントマジョリティ(無言の多数派)たちにとってはなんだか違和感を憶えるような急進的な風潮が生まれてしまうという現象は海外では日本よりももっと顕在的に問題視されていますよね。

 

blog.livedoor.jp

 

日本でももっとノイジーマイノリティという言葉が広まるべきだと僕は思います。少数意見の尊重はたしかに大事ですが、それは少数意見だと認識できていればの話です。少数意見が大衆の意見でもあると誤って拡大解釈されて世論となってしまうのは危険なことだと感じます。

 

あれこれ言ってみても

こうしてあれこれ言ってみても、言葉がなければ物事を考えられない、伝えられない生物に生まれてきてしまったのですから仕方がありません。人間と言葉が反目しながらも共存していける道を探すしかありません。発言だけが自分のもとを離れて文脈を無視して一人歩きしてしまうということが誰にとっても起こりうる現代だからこそ、SNSのような文明の利器をただありがたがるだけでなく、その負の面にも目を向けて、言葉がもたらす災いについて今こそ考えてみるべきです。自分が言わなくても誰かが代わりに言ってくれる時代だからこそ、言葉がもたらす災いについてもっと意識して考えてみるべきでしょう(2018年2月23日の記事を参照)。

 

potatoaim.hatenablog.com

 

 

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